妻、娘、息子との4人家族でアメリカ・テネシー州に住んでいる研究者です。
妻がホームページ運営をするにあたり、新しく「英語学習」についてのテーマについての情報発信することにしたことをきっかけに、自分の経験も合わせて情報発信することにしました。
というのも、自分のこれまでの経歴が英語学習の観点からするとある種ユニークであり、これまでの自分の生き方というのが他の人の役に立つのではと考えたからです。
情報発信をする前には、自分は何者なのかということをご紹介するのが筋だと思い、まずはプロフィールページを用意しました。
のぶ夫とは?
現在、アメリカの研究所に勤めて5年の月日が経とうとしています。従業員は1000人程度いる中、日本人研究員は自分ただ一人。かつて、英語が苦手だった自分がなぜ今こんなことになっているのか。
大学では理系の道に進学し、技術を進展させることによって世の中を良くしていくことに興味を持つ。
大学院での研究では満足せず、このままこの研究の道で飯を食っていくことになってもよい。そう考え、博士後期課程への進学を決意。
しかし、日本において研究者は肩身が狭く、一般の会社からすると”取り扱いづらい存在”となっていることに気づく。
研究が社会を良くするという事実とは裏腹に、お金にならない研究(研究分野による)は社会の隅へと追いやられている。
卒業を間近にして、日本にこのままいてもジリ貧になると考え、研究成果が社会から妥当に評価されているアメリカへと行き、アメリカの研究所に就職をすることを決意。
妻のぶ子を半ば強引に説得し、家族と一緒に渡米。その後、娘・息子が生まれる。
ここで、アメリカの研究所に就職と簡単に言っているものの、特に英語が得意だったわけではない。むしろコンプレックスを抱いていた。日本人の典型であり、読み書きはできるものの、うまく聞けないし話せない。そんな自分がなぜアメリカの研究所で働けるようになったのか?
英語コンプレックス
英語コンプレックスの記憶は大学2年生のときに遡る。
これまた典型的な日本人の通り、留学に憧れを抱き、貯金をすべてはたいてカナダの語学学校へ1ヶ月間行ったときのことである。
留学に行けば英語が話せるようになると期待し、英語力も底上げせずに現地に行くと、まずコミュニケーションが全然とれない。語学学校というのは同じ語学レベルの学生を集めたものだから、話せないのもお互い様。
互いに仲良くやっていこう、というノリで、持ち前のテンションの高さで友達はできたものの、英語そのものはほとんど伸びず、”もっと話せればもっと仲良くなれた”という悔しさだけが残った。
大学院生になり、研究活動の一貫で国際会議への発表機会が何度かあった。国際会議というと立派に聞こえるかもしれないが、英語の観点からすると、発表内容を暗記をすればなんとか乗り切れるもので、特段”英語力”がなくてもなんとかなった。
大学生活一貫して、英語が”聞けない”、”話せない”のコンプレックスは変わらないまま、卒業を迎えることになる。
なぜアメリカの研究所で働けるようになったのか?
結論から言うと、英語はあくまでもコミュニケーションの”手段”であり、求められていたのは”技術とスキル”だったから。
大学時代、努力して研究能力には磨きをかけた。その能力が評価され、英語能力は最低限でも、無事受け入れてもらえることができたのである。
日本で(ある研究分野においては)研究が妥当に評価されないということはわかったものの、なぜ英語のコンプレックスがあるのに、そこまでしてアメリカの研究所に行ったのか?
それは、自分のスキルをさらに磨くためである。自分は、不快感を抱く場所(=自分のスキルが相対的に低い場所)にあえて行く傾向がある。これは、不快指数が下がったときに、自分が成長したと感じられるためである。英語力の観点からも、研究レベルの観点からも不快指数が最大値の環境へとあえて飛び込んでいった。
この考えは、親の教えも大きく影響している。親父は、会社が一度破産して苦労した経験がある。その時から、”組織に依存するのではなく、自分の腕を磨け”。そういう教えを受けた。
もちろん、渡米したあと、生活においても、仕事においても、英語力を理由に非常に多くのストレスと苦労があったが、今では、自信をもって仕事に差し支えないビジネスレベルの英語力を習得したと言える。
どのような過程で、英語学習をすすめたのか。これは別記事で紹介しているので、興味のある方は読んでいただければと思う。