のぶ子のプロフィール

私について

アメリカ・テネシー州在住。夫と共に2人でスーツケース4つのみ抱えて渡米。

私が初めて英語を勉強したのは高校生の時です。

田舎で生まれ、田舎しか知らずそのまま年をとって死んでいく人が多い中そんな生活に疑問を持つようになったのがきっかけでした。

進路や人生について本気で悩んでいた私は、学校帰りに声をかけられた教会の無料英会話教室に通うようになりました。

家に居場所がなかったのでお金がない高校生でもいられて、なおかつ英語を教えてもらえる健全な場所を引き当てたのは今思えば本当にラッキーだったと思います。

その後、結局私は大学受験を辞め、海外留学や海外提携姉妹大学の進学・就職に強い専門学校に進学しました。のちに天職と言えるホテルコンシェルジュとなります。

高校の卒業式にも出てくれなかったほど怒っていた親との縁は一度切れたものの、家出同然で進学した学校はとても素晴らしくて活力に満ちた日々を送ることができました。

その後は学校や会社の寮に入寮して 東京・マレーシア・シンガポール・マカオなどの様々な国のホテルで研鑽を積みました。

生来の人見知りで人付き合いが苦手だった性格は、国内外で研鑽を積むにつれてサービス業仕様に変化していきました。

その過程で得た友人や同僚との縁は 主人と結婚し渡米した今でも繋がっています。

私の英語コンプレックスについて1度目の挫折

初めて働いたときは海外のお客様相手に思うような接客ができず、『使えない』『勉強不足』『バカ』と言われる日々でした。一緒に働く歴戦の先輩たちは当然のように英語を話し、中国語やフランス語・スペイン語を話すベテラン勢もいたので毎日怒られてビクビクしながら働いていました。

『今まで何やってきたの?本当に使えない』と面と向かって言われる毎日はあまりにみじめで、

英語が話せないから外国人が怖いのか、先輩に怒られるのが怖いから外国人が嫌になったのか、分からなくなったほどです。

同期も後輩もどんどん辞めていき、当時は自分だけが何もできないようなプレッシャーを感じていました。

英語ができないからバカにされる、バカにされたくないから勉強する、でもなかなか先輩達のレベルに追いつけない、落ち込む…といった負のスパイラルが何年か続きました。

こうして苦手意識があった英語は、のちに私の『私は絶対に人の努力をバカにしない。英語だけで優劣を決めたりしない』というポリシーを生むのです。

そんな英語コンプレックスが一変したのは、海外インターンで『もっと喋れなければチップがもらえないし仕事にならない』という事態になったときです。

特に海外インターンで初めて行ったマレーシアは、日本よりも安月給。

チップがもらえない問題はジリジリと生活を追い込んできます。友達がもらっていたような親からの仕送りは当然無いし、パパ活副業する覚悟もなかったのでよく安月給仲間と下町の激安屋台料理で下痢してました。

しかし不思議なもので、どれだけ英語が苦手でも辞めないで続けていると人間って必ず成長します。

海外で日本人や会社の先輩の目を気にしなくていい環境になったとたん、気楽にどんどんトライ&エラーできるようになったのです。

決まりきった定型文を言うので精一杯だった日々から、一言…また一言とポツポツと話せるようになって、「できないと思い込んでいる自分」から「それでもやってみる自分」に変わることができました。

田舎で生まれ田舎で死んでいくはずだった私の世界が、たしかに広がったのを確信した瞬間でした。

私の英語コンプレックスについて✾2度目の挫折

2度目の挫折は、主人と共にアメリカへ引っ越した時です。

仕事で使うビジネス英語と、アメリカで現地人として生きていくための英語は全く違うという事を痛感しました。

一会社員として働いていたあの頃は、相手も私を仕事相手として接してくれていたので扱いが丁寧でした。

しかしただの一主婦となったとたん、扱いが雑に。

え、待って私の話を聞いて?もう一回きいてもいいですか?ちょっと!外人めんどくせぇって顔しないでよ!態度が悪いし怖いのよ!

という事態がジムや運転免許センター、スーパーで起こりだしたのです。

そして会話のスピードもまるで違う。彼らには『行き違いがあったら困るからゆっくり会話しよう』なんて配慮はさらさら無いのです。

まずママ友グループの会話が早すぎて聞き取れない。車のディーラーと対等に話せない。銀行口座が一人で作れない。病院のドクターの専門用語が理解できない。……こうして、また『できない自分』と向き合う生活が始まりました。泣きました。

さらにプレッシャーだったのは、アメリカで子供達が生まれてからです。

熱を出した時、学校でうまく行かない時、主人が出張でいない時、子供たちがまず頼るのは母親である私です。

私がもっとアメリカ人と対等に渡り合えないと子供達の生活を守ることができなくなってしまう。そんな不安と疲労感でいっぱいの日々でした。

おかげで子供たちが生まれてから、ものすごいスピードで老けた気がします。シンプルに老化がつらい。

私が英語学習について思うこと

私が日本の企業で働いていて嫌だったことの一つに、日本人社員同士の英語能力に対するマウント合戦があります。

企業が採用要件の足切りとしてTOEICスコアを求めるのは昭和企業っぽくて納得なのですが、入社後の社員間でも英語能力の上下でマウントがあるのが???て感じでした。

さらに不思議だったのが、渡米後のESLや駐在妻コミュニティでも同様の事態が起きたことです。

『私はしゃべれないから』『〇〇さんのほうが話せるから』という理由で萎縮したり、上下関係ができたりする様子を見るたびに悲しい気持ちになりました。

そしてインスタグラムなどで『○○大卒、TOEIC990点!』ばーんっ!という肩書をわざわざ個人プロフィールに書く人を見るたびに『それで君は何がしたいんだい?』と思うわけです。

私にとって英語は海外スタッフやお客様とコミュニケーションをとるためのツールであり、個人の力自慢をする手段ではないのです。企業に採用されチームで仕事をするようになったのなら、なおさら自分が持つ能力は全てチームの能力そのものです。

企業の中の一個人として買われた能力が ”英語だけ” ならば仕方がないですが、もし違うのであれば英語を生きるための力として学んでいくことをおすすめします。

オタクで引きこもりがち私が私でいられるワケ

私は常に『何者か』でありたいと思っています。

なにか夢中になって打ち込む仕事や趣味がないとつまらないのです。

私はこれまで自立して生きていく為にホテルの道を極めていました。

夫と出会い結婚してからは、『彼の妻・兼ホテルマン』でした。

そして渡米し子供達ができてからは『妻であり、母であり、日本語教師』でした。

オタクで引きこもりがちな私でも在宅ワーカーという道を開けたおかげで、アメリカでアイデンティティを失わずに過ごせています。

人生の中でちょこちょこと登場していた英語学習も、はじめは仕事のために必要だった存在から、今ではアメリカで子供たちを守るために必要なスキルとなりました✾

なので私が大切にしたいことは、『何者になっても学びをやめない事』です。

特に女性は、結婚したり子供ができたりすると自分の時間が一切なくなります。

ご主人の都合で転勤になったり、子供の都合で1日のスケジュールが変わったりするからです。

しかし度重なる転勤や、育児で働く時間が限られてしまったとしても、英語を始めとする蓄えた能力は死んだりしません。

私が在宅ワーカーという道が開けたのも、住む国が変わって引きこもっていたとしても 学びを辞めなかったからだと思っています。

なので今 英語学習や海外生活に悩んでいる方には、もったいないから学びをやめないで欲しいなと思いました。少しずつ、ゆっくりでいいのです。

どんな状況でも、自分が 自分らしくいられる生活を見つけましょう。

英語学習をはじめる全ての人、海外生活を送る全ての人の幸せを心から願っています。

私は自分自身が努力し続ける事で、辞めさえしなければ日々のちいさな学びが力になる事を証明したいと思います✾

テネシーの山々。先が見えなくとも進む強さを学んだ日。

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